尾道正家 | 三原正家

天平時代から千三百年つづく尾道の旧家其阿彌家。三原派の刀匠や刀鍛冶に関する歴史的資料を公開している公式サイトです。

室町時代初期のおもな守護大名と領地 このころ尾道を中心とした主要な対明貿易品の三原の刀は、明国との間で「神刀」(神の刀)と呼ばれ、非常に高値で取引されました。

1560年(永禄3年)頃の大名の領地 武田信玄の子 勝頼が、信長配下の城を次々と落としますが、信長・家康の要請を受けた上杉謙信により、勝頼は兵を退かざるを得なくなり、信長は謝礼として、天正2年(1574)2月、謙信に狩野永徳の洛中洛外図屏風(「上杉本洛中洛外図屏風」米沢市上杉博物館蔵)、家康には備後正家の刀を贈りました。

1582年、本能寺の変前頃の織田信長と有力大名の領地 本能寺の変の講和後、毛利方は、本能寺の変を知り、隆景の兄・吉川元春は、秀吉の軍勢に追撃を唱えますが、隆景は次のように語り、元春の意見を抑えます。『和睦をしたばかりで誓紙の血が乾かぬうちに追撃するのは不義であり信長の死に乗ずるのは不祥である』後日、これを聞いた秀吉は隆景に大変感謝し、秀吉が天下を取った後、毛利家は優遇され、毛利家の抱工だった三原の刀が秀吉により天下に知れる刀となりました。

今川了俊は、応安4年(1371年)の尾道の状況を、ふもとにそひて家々所せくならびつゝ、あみほすほどの庭だにすくなし(山の麓に家々が所狭しと立ち並び、網干す庭も少ない)と描写しています  -道ゆきぶり-