尾道正家 | 三原正家

天平時代から千三百年つづく尾道の旧家其阿彌家。備後三原派の刀匠や刀鍛冶に関する歴史的資料を公開している公式サイトです。

正家歴史ヒストリア 〈刀匠三原派、刀匠其阿弥〉

時代 西暦 和暦 出     来     事
奈良 701 大宝1   大宝律令の営繕令の刀剣に関する記述として、「年月及び工匠ノ姓名ヲ鐫題セシム」とある。
729 天平頃   正家  〔古今鍛冶備考〕
初代正家のことと思われ、尾道住と伝わる。
正家の名跡は、是以降天正(桃山時代)まで続く。
平安 927 延長5   「延喜式」によると、現在の"国税"に当たる調で鉄を差し出すように指定された国は、美作、伯耆、備中、備後、筑前の五カ国のみ。
※備後とは、現在の広島県東部の尾道、三原地方のことです。
1169 嘉応1   後白河法皇が管理する備後国の大田荘の米などの倉敷地として、尾道港が天下公認の港となる。
1186 文治2   備後国の大田荘が高野山領になる。その管理のために今高野山が創建される。その後、僧兵のお抱え鍛冶として、本国大和国(奈良)から刀鍛冶が甲山村付近に招かれる。やがて、刀作りがしだいに備後国に広まっていく。
鎌倉 1275 建治1   鎌倉中期の尾道概略図、「貢之郡尾道略図」によると、丑寅社【現在の艮神社】前から西は今のJRの線路が海岸、東は入り江(現在の尾道市長江1丁目あたり)になっている。入り江の近くに、大田荘の倉敷地が出来、年貢が高野山に海路で運ばれるまで一時保管される。
1313 正和2   常称寺が、時宗のニ祖遊行他阿真教上人によって創建される。
この時、艮神社【丑寅社】の西隣にある「中之段」(現在の尾道市東土堂町18)に鍛冶屋敷と住居を構えていた6代正家は、真教上人に出会い其阿弥の法名を得る。その後、6代正家は、三原の東野村の鍛冶屋敷に移って刀を作り、1代限りの「三原正家」となる。

古三原の始まり

1316 正和5   「刀 銘 正家」の記録がある。
南北朝 1336 建武3   足利尊氏が九州に西走後、東上して湊川の戦いに勝利する。 この時、尊氏は味方した備後の杉原信平兄弟の武功を賞して、備後国の木梨荘13ヶ村(木梨村、尾道町、後地村など)を与える。
1337 建武4   備後国の木梨村に、鷲尾山城が築かれる。
小早川隆景以前の尾道、三原は、木梨氏など周辺の国人領主が割拠する土地だった。

中三原の始まり〝古三原の終わり〟

1350 観応1   「三原」の文字が、文献上に始めて現れる。
同じ頃 この頃から中三原の中に、木梨鍛冶の集団が出来る。
同じ頃 「草戸住刀工一乗が稲荷を信仰し、草戸(草戸千軒)の自宅の傍に之を祀ると云う。」
古刀に「備後草戸住法華一乗」の作刀銘もみられ、草戸稲荷は守護神として、鎌倉時代から室町時代にかけて草戸千軒(現在の広島県福山市の明王院下にある中州遺跡)に存在したことが伝えられる。現在の草戸稲荷神社(福山市)は、もと中州にあった小祠を福山藩主が今の地に遷して再建した。
この頃から中三原の中に、法華の集団が出来る。
「小太刀 銘 一乗作」、「短刀 銘 一乗盛家」
1354 文和3   大覚大僧正により、鬼門の方向に妙宣寺(日蓮宗)が創建される。
1356 延文1   妙顕寺(日蓮宗)が、草戸村(現在の福山市)に刀工一乗兄弟の兄妙性によって創建され、一乗の銘のある「 小狐丸 こぎつねまる (古狐丸)」が奉納される。
1357 延文2   妙法寺(日蓮宗)が、野上村(現在の福山市)に刀工一乗兄弟の弟本性によって創建される。
1362 貞治1   この頃から、中三原の中に鞆の集団が出来て、貞家、家次、が鞆に住む。その後、刀鍛冶の氏神として、 小烏神社 こがらすじんじゃ が室町時代後期に創建され、現在でもふいご祭りが、毎年12月の第一週の土・日曜日に行なわれる。
「槍 銘 備州鞆住家次作」
1366 貞治5 「短刀 銘 備州正重作」の年期の短刀がある。
1374 応安7 12 「短刀 銘 備州住重光」の年期の短刀がある。
この頃から中三原の中に、「幻の尾道刀工」と伝わる辰房の集団が出来る。
室町 1404 応永11   日明貿易が始まり、尾道から10数万振りの大量の刀が輸出される。

末三原の始まり〝中三原の終わり〟

1414 応永21 『懐宝剣尺』で、最上大業物として名前が挙がっている正家(六代正家から数えて4代目、応永の正家)の年期の刀がある。
1428 正長1   刀剣本「 古刀銘盡 ことうめいづくし 」では、實重 辰房住、重貞 尾道辰房ト云処ニ住 と辰房が地名となっている。
1460 寛正1   この頃から三原住政宗の末三原、五阿弥忠行の五阿弥の集団が出来る。
室町・戦国 1467 応仁1   応仁の乱が始まり、さらに、海賊が瀬戸内海に勢いを振るうなどして急速に刀の需要が増え、折れず、曲がらず、よく切れると三原の刀が評価される。
また、この頃から、刀だけではなく槍なども鍛造した。
1499 明応8 「刀 銘 備州住五阿弥貞信」の年期の刀がある。
1501 文亀1   この頃から木梨鍛冶の末流が三原に移住して、末三原の中に、貝三原の集団が出来る。
1523 大永3   毛利元就(1497-1571)が吉田郡山城に入城し、城下に、三原の刀鍛冶の鍛冶屋敷が出来る。また、毛利氏は、京都に送る年貢米の積み出しを三原で行うなど、当時の三原は、塩や周辺諸荘園の年貢積み出し港として賑わい、刀鍛冶なども多く居住する、瀬戸内でも有数の港町だった。
1526 大永6   長州藩主毛利家が、家中の諸家諸士の伝来する文書を集成した『閥閲録遺漏』に、辰房屋敷の記述がある。
この頃を境に、尾道に住む辰房鍛冶が尾道からいなくなる。

尾道辰房の終わり

1528 享禄1   高野山領の大田荘の支配が消滅し、これ以降、大田荘は毛利氏の領国に組み込まれていく。
1542 天文11 「脇差し 銘 尾道住其阿弥定行」の年期の脇差しがある。
この頃から末三原の中に、其阿弥の集団が出来る。
1552 天文21   小早川隆景により、三原浦の砦の整備が始められる。
記録によれば、天文22年3月、八幡六郎右衛門尉が「三原要害(城)」の在番を申付けられている(『萩藩閥閲録』)。
1555 天文24   尾道住人五阿弥長行の作った太刀2腰が、岡山の吉備津神社に寄進される。〔現在 国の重要文化財〕
同じ頃 備後神辺城主杉原播磨守重盛(1533-1582)が、艮神社に「備州尾道住人其阿弥長行作」銘の刀を奉納する。
「中之段」から、艮神社前にかけて、其阿弥の鍛冶屋敷があったと記録がある。
1566 永禄9   毛利元就が、中国地方を統一する。
1567 永禄10   小早川隆景(元就の子)により三原城の築城が始まる。東野村にいた三原の刀鍛冶は、本丸東の鍛冶屋敷に移る。
安土桃山 1575 天正3 「刀 銘 備州三原住貝正近作」の年期の刀がある。
1579 天正7   備後国三原に住む貝正近が、中国地方を中心に鍛冶屋に信仰される神の 金屋子 かなやご 神社(現在の島根県飯石郡飯南町上来島1043番)にて、17日間の断食祈願を行い刀を奉納する。
1584 天正12   尾道の後地村に、木梨氏により千光寺山城が築かれるが、のち、太閤の指示により廃城となる。
1588 天正16   豊臣秀吉による刀狩令が発せられ、農民に対して刀を持つことを禁止する。
1589 天正17   120万5千石の毛利輝元(隆元の子で元就の孫)が、吉田郡山城から本拠地を広島に移すため、三原城築城の技術を使って広島城の築城を始める。
この頃の三原派の刀工の数は、備前鍛冶に匹敵するほどの隆盛を誇ったと伝わる。
1592 文禄1   毛利秀元(当時、毛利輝元の養子)は、厳島神社に三原の刀を寄進する。
1598 慶長3   豊臣秀吉の形見分けとして、浅野幸長が三原の太刀「大三原」を拝領する。「大三原」の象嵌銘は、形見分け以前からあった。〔現 国の重要文化財〕
1600 慶長5   関ヶ原の後、伊吹山中で逃亡中の石田三成を捕縛するという大功を挙げた徳川方の田中伝左衛門に、三原の刀「さゝのつゆ」が下賜される。
関ヶ原の後、毛利輝元は、周防・長門(現在の山口県内)二か国(36万9千石)へ減封される。
1601 慶長6   福島正則、尾張国清洲(現在の愛知県清須市)より、安芸・備後49万8千石で広島に入城する。
同じ頃 時宗じしゅうの総本山で藤沢にある遊行寺ゆぎょうじの遊行上人が全国を廻国する途次とじ、尾道では其阿弥家にも立ち寄る事が多く、明治15年の本家が絶えるまで続いた。また、立ち寄る際、遊行上人は、自筆の和歌や「南無阿弥陀仏」の名号を其阿弥家に残した。
1615 元和1   元和偃武 げんなえんぶ により、諸国の刀鍛冶の仕事が振るわなくなり、大和守正氏など尾道、三原の刀工も隣国に招かれ刀を作った。
1617 元和3   津和野藩のお抱えの鍛冶に、五阿弥が見られる。
江戸 1619 元和5   浅野長晟が安芸と備後8郡(42万6千石)へ移封され、広島に入城する。
1631 寛永8   三原より、其阿弥藤右衛門が尾道に来て鐔工となり、家業が盛り返す。その後、幕末まで尾道を拠点とした鐔工として、正命、正比、正芳、正家 などの名工を輩出する。
束熨斗図透鐔   銘 其阿弥貝正命
冠に琵琶図透鐔  銘 其阿弥正比 作
沢瀉図透鐔    銘 其阿弥正芳 作
松樹茅葺家図透鐔 銘 其阿弥正家 作
1638 寛永15   かぢ清兵衛(其阿弥清兵衛、初代)が、尾道の土堂(現在の光明寺下)にあった鍛冶屋町に居住した記録がある。
その後、鍛冶屋町は、十四日町(現在の尾道市十四日元町付近)に移転する。

其阿弥鍛冶屋の始まり〝末三原の終わり〟

1719 享保4   其阿弥清兵衛(2代)による 「 其阿弥清兵衛覚書 ごあみせいべえおぼえがき 」によれば、時宗の2祖真教上人が尾道を訪れた際に、「御札切小刀」を献上したところ、「其阿弥」という号を賜ったとある。
1745 延享2   徳川吉宗から若年寄(のちの、老中)の陸奥国泉藩主板倉勝清に、「刀 朱銘三原」が下賜される。 江戸東京博物館蔵
1803 享和3   安芸、備後の名所旧跡を集めた文献「藝備古跡志」が出来た時は、すでに辰房は不明だったらしく、文献によれば「尾道に辰房といへる地名なし、辰房は恐く称号なるべし」と書かれてある。
1819 文政2   芸州藩(現在の広島県の大部分)が東野村(現在の三原市)に命じて村勢を報告させた「國郡志御用ニ付下しらへ書出帳」に、正家の屋舗と井戸と墓の記述がある。
1825 文政8   芸州(広島)藩の命により編纂された「芸藩通志」が完成する。
東野村の項に、正家宅跡など当時の地図がある。
1828 文政11   確認出来る古い記録では、尾道の鍛冶屋町にある「中之段の荒神社」(現在の尾道市東土堂町18)が創建されたとある。中之段の荒神社は、鍛冶屋町の久度神くどのかみと伝えられ、かまどの守護神とされている。例大祭は、毎年5月に行われる。
1834 天保5   其阿弥権次郎(武助の父)が、尾道の久保亀山八幡宮に大太刀を一振奉納する。大太刀は、所持した者を守るという宝珠を追う龍の装飾で、尾っぽには剣を巻き付けている。 【銘 国正】
明治 1870 明治3   其阿弥姓になり、其阿弥家となる。
「当家の起こり遠く今を距ること1千1百年天平年中に在り、尾道唯一の旧家と称する亦宣なりとす」
1872 明治5   三原城の建物・樹木の入札が実施され、本丸建物と天主台の走櫓と表門・唐門を残し、城の中心部の建物・樹木は次々と取り除かれていった。鍛冶屋敷にあった正家の井戸は、昭和12年頃までは存在が確認された。
1876 明治9   明治政府の廃刀令
鎌倉末期の六代正家(三原正家のこと)の長男正廣が其阿弥を相続し、その後裔に当たる其阿弥武助が其阿弥鍛冶屋を止めることで、1100年続いた刀鍛冶に終止符を打つ。

尾道之其阿弥の始まり〝其阿弥鍛冶屋の終わり〟

1882 明治15   其阿弥武助の娘ハルが、其阿弥家を本家(兄)と宗家(弟)に分ける。
本家が絶える。
1895 明治28   其阿弥武助(宗家)が、広島縣御調郡尾道町大字十四日739番屋敷(当時の鍛冶屋町)において没する。
尾道の艮神社内の「碑顕彰碑」と長江口交差点の「刀鍛冶発祥の地」の石碑と宝土寺の「尾道刀鍛冶供養碑」は、当其阿弥家とは何ら関係のない方が建立されたものです