尾道正家 | 三原正家

天平時代から千三百年つづく尾道の旧家其阿彌家。備後三原派の刀匠や刀鍛冶に関する歴史的資料を公開している公式サイトです。


『萩藩閥閲録遺漏』(はぎはんばつえつろくいろう) 巻四ノ二

萩藩主毛利吉元が、藩の諸家が所蔵している古文書や家系図を編纂させた江戸時代の史料集で、享保5年(1720年)に着手、享保11年(1726年)に『閥閲録』として完成しました。『閥閲録遺漏』については、『閥閲録』成立時に収録出来なかったものを調査して、それらを5巻に編集して幕末期に追加したものとなっています。後に山口県文書館が再編して出版した際に、『萩藩閥閲録遺漏』と名づけられました。
木梨陸恒・高恒連署状
大永六年(1526)、尾道、三原を押さえていた木梨陸恒・高恒が、高須の杉原元胤に、
「尾道、三原の内の所望する九屋敷の土地の内、三屋敷分を知行目録として与える」
との内容です。このなかに「弐貫文、辰房屋敷たつぼうやしき」というものが出て来ますが、そこに記された九屋敷は、「尾道、三原」の内だということまで分かります。
面積については、弐貫文とは辰房屋敷が2貫文の収穫高があると言う事で、当時の奈良の米価の記録によると、1石が500文になっています。という事は、1貫が2石という計算になります。(1貫は、銭1000文にあたります。)
つまり、2貫=4石となり辰房屋敷の敷地は、今の坪数で換算するとだいたい1500坪となります。
当時の尾道では、広い土地のように感じます。
ただ、換算については、地方によって多少の違いがあります。
貫高かんだか鎌倉末期から室町初期に一般化し、戦国時代まで用いられた田畑など土地の面積の表示方法で、その土地から徴収できる貢祖(こうそ)の量を、貫文(銭)で表示したものです。
享和3年(1803年)の藝備古跡志と言う記録では、「辰房というのは地名ではないかと推測し、尾道の町の中を調べて見たのであるが、そのような場所は当時確認出来ず、辰房は称号ではないか」と結論付けています