正家歴史ヒストリア 〈刀匠三原派、刀匠其阿弥〉
平成29年1月1日
(2017年)
其阿彌秀文
Hidefumi Goami
時代 | 西暦 | 和暦 | 出 来 事 | |
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奈良 | 646 | 大化2 | 備後国(現在の広島県東部)・安芸国(現在の広島県西部)が誕生する。 吉備国が分割され京都に近い方から、備前国(現岡山市)、備中国(現倉敷市)、備後国(現尾道市)と呼ばれる。 |
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701 | 大宝1 | 大宝律令の営繕令の刀剣に関する記述として、「年月及び工匠ノ姓名ヲ鐫題セシム」とある。 | ||
729 | 天平頃 | この頃、権威や富の象徴的として短い 正家 〔古今鍛冶備考〕 初代正家のことと思われ、尾道住と伝わる。 正家の名跡は、是以降天正(桃山時代)まで続く。 |
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平安 | 927 | 延長5 | 「延喜式」によると、現在の"国税"に当たる調で鉄を差し出すように指定された国は、美作、伯耆、備中、備後、筑前の五カ国のみ。 ※備後とは、現在の広島県東部の尾道、三原地方のことです。 |
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1081 | 永保1 | 「尾道」という名前が初めて歴史上に登場する。 日本刀五力伝の一つ大和伝が奈良で起こる。 |
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1169 | 嘉応1 | 後白河法皇が管理する備後国の大田荘の米などの倉敷地として、尾道港が天下公認の港となる。 | ||
鎌倉 | 1186 | 文治2 | 備後国の大田荘が高野山領になる。その管理のために今高野山が創建される。その後、僧兵のお抱え鍛冶として、本国大和国(奈良)から刀鍛冶が甲山村付近に招かれる。やがて、刀作りがしだいに備後国に広まっていく。 | |
1274 | 文永11 | 蒙古襲来(元寇)、以来日本では刀剣などの武器の量産が急務となった。 | ||
1275 | 建治1 | 鎌倉中期の尾道概略図、「貢之郡尾道略図」によると、丑寅社【現在の艮神社】前から西は今のJRの線路が海岸、東は入り江(現在の尾道市長江1丁目あたり)になっている。入り江の近くに、大田荘の倉敷地が出来、年貢が高野山に海路で運ばれるまで一時保管される。 | ||
1306 | 徳治1 | 正家の存在が伝えられる。 | ||
1313 | 正和2 | 常称寺が、時宗のニ祖遊行他阿真教上人によって創建される。 この時、艮神社【丑寅社】の西隣にある「中之段」(現在の尾道市東土堂町18)に鍛冶屋敷と住居を構えていた6代正家は、真教上人に出会い其阿弥の法名を賜る。 古三原の始まり |
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1316 | 正和5 | 「刀 銘 正家」の記録がある。 この頃6代正家は、備後国三原に鍛冶屋敷を構え1代限りの「三原正家」となる。 |
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南北朝 | 1336 | 建武3 | 足利尊氏が九州に西走後、東上して湊川の戦いに勝利する。 この時、尊氏は味方した備後の杉原信平兄弟の武功を賞して、備後国の木梨荘13ヶ村(木梨村、尾道町、後地村など)を与える。 | |
1337 | 建武4 | 備後国の木梨村に、鷲尾山城が築かれる。 小早川隆景以前の尾道、三原は、木梨氏など周辺の国人領主が割拠する土地だった。 |
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同じ頃 | 「日蓮宗の
中三原の始まり〝古三原の終わり〟 |
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1350 | 観応1 (正平4) |
備後国沼隈郡鞆で小烏の合戦「
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同じ頃 | 「三原」の文字が、文献上に初めて現れる。 | |||
同じ頃 | この頃から中三原の中に、木梨鍛冶の集団が出来る。 | |||
同じ頃 | 「草戸住刀工一乗が稲荷を信仰し、草戸(草戸千軒)の自宅の傍に之を祀ると云う。」と文献に記録がある。 古刀に「備後草戸住法華一乗」の作刀銘もみられ、草戸稲荷は守護神として、鎌倉時代から室町時代にかけて草戸千軒(現在の広島県福山市の明王院下にある中州遺跡)に存在したことが伝えられる。現在の草戸稲荷神社(福山市)は、もと中州にあった小祠を福山藩主が今の地に遷して再建した。 この頃から中三原の中に、法華の集団が出来る。 「小太刀 銘 一乗作」、「短刀 銘 一乗盛家」 |
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1354 | 文和3 | 大覚上人により、鬼門の方向に妙宣寺(日蓮宗)が創建される。 | ||
1356 | 延文1 | 4 | 妙顕寺(日蓮宗)が、草戸村(現在の福山市)に刀工一乗兄弟の兄妙性によって創建され、一乗の銘のある「
なお、妙顕寺建立後、妙宣寺との往来が続く。 |
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1357 | 延文2 | 妙法寺(日蓮宗)が、野上村(現在の福山市)に刀工一乗兄弟の弟本性によって創建される。 | ||
1362 | 貞治1 | この頃から、中三原の中に鞆の集団が出来て、貞家、家次、が鞆に住む。その後、刀鍛冶の氏神として、
「槍 銘 備州鞆住家次作」 |
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1366 | 貞治5 | 8 | 「短刀 銘 備州正重作」の年期の短刀がある。 この頃から、尾道にすぐれた刀工がいることが世間に知れ渡る。 |
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1374 | 応安7 | 12 | 「短刀 銘 備州住重光」の年期の短刀がある。 この頃から中三原の中に、「幻の尾道刀工」と伝わる辰房の集団が出来る。 |
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室町 | 1404 | 応永11 | 日明貿易が始まり、尾道から10数万振りの大量の刀が輸出される。 末三原の始まり〝中三原の終わり〟 |
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1414 | 応永21 | 2 | 『懐宝剣尺』で、最上大業物として名前が挙がっている正家(六代正家から数えて4代目、応永の正家)の年期の刀がある。 | |
1428 | 正長1 | 刀剣本「
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1460 | 寛正1 | この頃から三原住政宗の末三原、五阿弥忠行の五阿弥の集団が出来る。 | ||
室町・戦国 | 1467 | 応仁1 | 応仁の乱が始まり、さらに、海賊が瀬戸内海に勢いを振るうなどして急速に刀の需要が増え、折れず、曲がらず、よく切れると三原の刀が評価される。 また、この頃から、刀だけではなく槍なども鍛造した。 |
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1499 | 明応8 | 2 | 「刀 銘 備州住五阿弥貞信」の年期の刀がある。 | |
1501 | 文亀1 | この頃から木梨鍛冶の末流が三原に移住して、末三原の中に、貝三原の集団が出来る。 | ||
1523 | 大永3 | 毛利元就(1497-1571)が吉田郡山城主になる。城下に、三原の刀鍛冶の鍛冶屋敷が出来る。この頃から、三原鍛冶は毛利家のお抱え刀工になる。また、毛利氏は、京都に送る年貢米の積み出しを三原で行うなど、当時の三原は、塩や周辺諸荘園の年貢積み出し港として賑わい、刀鍛冶なども多く居住する、瀬戸内でも有数の港町だった。 | ||
1526 | 大永6 | 長州藩主毛利家が、家中の諸家諸士の伝来する文書を集成した『閥閲録遺漏』に、辰房屋敷の記述がある。 この頃を境に、尾道に住む辰房鍛冶が尾道からいなくなる。 尾道辰房の終わり |
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1528 | 享禄1 | 高野山領の大田荘の支配が消滅し、これ以降、大田荘は毛利氏の領国に組み込まれていく。 | ||
1542 | 天文11 | 8 | 「脇差し 銘 尾道住其阿弥定行」の年期の脇差しがある。 この頃から末三原の中に、其阿弥の集団が出来る。 |
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1552 | 天文21 | 小早川隆景により、三原浦の砦の整備が始められる。 記録によれば、天文22年3月、八幡六郎右衛門尉が「三原要害(城)」の在番を申付けられている(『萩藩閥閲録』)。 |
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1555 | 天文24 | 尾道住人五阿弥長行の作った太刀2腰が、岡山の吉備津神社に寄進される。〔現在 国の重要文化財〕 | ||
同じ頃 | 備後神辺城主杉原播磨守重盛(1533-1582)が、艮神社に「備州尾道住人其阿弥長行作」銘の刀を奉納する。 「中之段」から、艮神社前にかけて、其阿弥の鍛冶屋敷があったと記録がある。 |
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1559 | 永禄2 | 毛利隆元が厳島神社に、三原の刀 乱髪一文字 を寄進する。 | ||
1566 | 永禄9 | 毛利元就が、中国地方を統一する。 | ||
1567 | 永禄10 | 小早川隆景(元就の子)により三原城の築城が始まる。東野村にいた三原の刀鍛冶は、本丸東の二の丸にある鍛冶屋敷に移る。 | ||
1570頃 | 元亀頃 | 備後国の貝三原正近の後裔初代が、播州印南郡山中新村に移る。 銘 正家、銘 藤原正家 |
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安土桃山 | 1575 | 天正3 | 2 | 「刀 銘 備州三原住貝正近作」の年期の刀がある。 |
1577 | 天正5 | 7 | 織田信長の中国攻めを受けて、毛利輝元が同年末頃まで三原城に本陣を置く。 | |
1579 | 天正7 | 備後国三原に住む貝正近が、中国地方を中心に鍛冶屋に信仰される神の
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1584 | 天正12 | 尾道の後地村に、木梨氏により千光寺山城が築かれるが、のち、太閤の指示により廃城となる。 | ||
1588 | 天正16 | 豊臣秀吉による刀狩令が発せられ、農民に対して刀を持つことを禁止する。 | ||
1589 | 天正17 | 120万5千石の毛利輝元(隆元の子で元就の孫)が、吉田郡山城から本拠地を広島に移すため、三原城築城の技術を使って広島城の築城を始める。 広島城を築城の際には、尾道から石工数人を徴用して広島に集団移住させた。その住まいが尾道町と呼ばれた。 この頃の三原派の刀工の数は、備前鍛冶に匹敵するほどの隆盛を誇ったと伝わる。 |
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1592 | 文禄1 | 毛利秀元(当時、毛利輝元の養子)は、厳島神社に三原の刀を寄進する。 | ||
1595 | 文禄4 | 11 | 家督を譲った小早川隆景は、三原に戻り三原城と城下町を整備する。 | |
1595 | 文禄4 | 国衆木梨にかわり、戦国大名の毛利輝元が尾道を支配下に入れる。 | ||
1597 | 慶長2 | 6 | 小早川隆景が没する。 | |
1598 | 慶長3 | 豊臣秀吉の形見分けとして、浅野幸長が三原の太刀「大三原」を拝領する。「大 三 原」の象嵌銘は、形見分け以前からあった。〔現 国の重要文化財〕 | ||
1600 | 慶長5 | 9 | 三原が毛利氏の直轄領となる。 関ヶ原の後、伊吹山中で逃亡中の石田三成を捕縛するという大功を挙げた徳川方の田中伝左衛門に、三原の刀「さゝのつゆ」が下賜される。 また、毛利輝元は、周防・長門(現在の山口県内)二か国(36万9千石)へ減封される。 |
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1601 | 慶長6 | 3 | 福島正則が、尾張国清洲(現在の愛知県清須市)より、安芸・備後49万8千石で広島に入城する。その後、鞆の町は、福島正則が鞆城を作った時の町割りにより小鳥神社前に鍛冶町(鍛冶屋町)が作られ、もともと地域内に点在していた刀鍛冶などの鍛冶職人が集められる。 | |
同じ頃 | ||||
江戸 | 1615 | 元和1 |
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同じ頃 | 貝三原正近の後裔二代目が播州姫路に移る。 銘 大和守藤原正家 | |||
1617 | 元和3 | 津和野藩のお抱えの鍛冶に、五阿弥が見られる。 | ||
1619 | 元和5 | 浅野長晟が安芸と備後8郡(42万6千石)へ移封され、広島に入城する。 | ||
1631 | 寛永8 | 三原より、鐔工として其阿弥藤右衛門が尾道に来て家業が盛り返す。その後、藤右衛門は三原で没する。幕末まで三原を拠点とした鐔工として、正命、正比、正芳、正家 などの名工を輩出する。 束熨斗図透鐔 銘 其阿弥貝正命、 冠に琵琶図透鐔 銘 其阿弥正比 作 雲形雷紋鐔 銘 其阿弥正芳 作、 松樹茅葺家図透鐔 銘 其阿弥正家 作 |
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1637 | 寛永14 | 其阿弥清兵衛の家族形態の記録として、血縁5人、非血縁3人、計8人とある。 「尾道町宗門改帳」 |
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1638 | 寛永15 | かぢ清兵衛(其阿弥清兵衛、初代)が、尾道の土堂(現在の光明寺下)にあった鍛冶屋町に居住した記録がある。 その後、鍛冶屋町は、十四日町(現在の尾道市十四日元町付近)に移転する。 |
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其阿弥清兵衛の屋敷所持の記録として、自分が住んでいるところと、他人に貸してある家を合わせて2軒、面積は2畝6歩(約66坪)とある。かしやかかえ(借家抱え)は1竈(1戸)とある。 「寛永十五年尾道町御地詰帳」 |
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1645 | 正保2 | 末三原 銘「三原住正真」の記録がある。 | ||
1646 | 正保3 | 9 | 其阿弥吉光没 | |
1688 | 元禄1 | 11 | 広島藩主浅野氏の家老で四代三原城主浅野忠義の着領として 其阿弥鍛冶屋の始まり〝末三原の終わり〟 |
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1719 | 享保4 | 其阿弥清兵衛(2代)による 「
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1721 | 享保6 | 1 | 直助権兵衛の事件が起こる。 脇差 銘 三原則光 | |
1745 | 延享2 | 徳川吉宗から若年寄(のちの、老中)の陸奥国泉藩主板倉勝清に、「刀 朱銘三原」が下賜される。 江戸東京博物館蔵 | ||
1799 | 寛政11 | 8 | 肥前国平戸藩藩主松浦静山が、日光東照宮参拝に備後三原正近の刀を持参する。 | |
1803 | 享和3 | 安芸、備後の名所旧跡を集めた文献「藝備古跡志」が出来た時は、すでに辰房は不明だったらしく、文献によれば「尾道に辰房といへる地名なし、辰房は恐く称号なるべし」と書かれてある。 | ||
1819 | 文政2 | 芸州藩(現在の広島県の大部分)が東野村(現在の三原市)に命じて村勢を報告させた「國郡志御用ニ付下しらへ書出帳」に、正家の屋舗と井戸と墓の記述がある。 | ||
1825 | 文政8 | 芸州(広島)藩の命により編纂された「芸藩通志」が完成する。 東野村の項に、正家宅跡など当時の地図がある。 |
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1828 | 文政11 | 確認出来る古い記録では、尾道の鍛冶屋町の中の段に荒神社(現在の尾道市東土堂町18)が創建されたとある。中の段の荒神社は、鍛冶屋町の |
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1834 | 天保5 | 其阿弥権次郎(武助の父)が、尾道の久保亀山八幡宮に大太刀を一振奉納する。大太刀は、所持した者を守るという宝珠を追う龍の装飾で、尾っぽには剣を巻き付けている。 【銘 国正】 | ||
1857 | 安政4 | 其阿弥権次郎が亡くなり、其阿弥武助が宗家を継ぐ。その時、代々受け継がれた正家(各代と応永年期含む)、正広など、先祖伝来の刀剣、槍、鉾が10振程度と、時宗・遊行上人による「御名号御歌」など複数紛失していることが判明するが、所在不明となる。 刀 銘 備州尾道住五阿弥貞信/明󠄁應八年二月日 槍 銘 備州尾道住五阿弥貞信/明󠄁應二年二月日 鉾 無銘 短刀 銘 備州尾道住五阿弥長行/天文二十一年二月日 脇差 銘 備州尾道辰房光重/明󠄁應二年二月 ほか |
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1866 | 慶應2 | 2 | 紀州徳川家留守居役伝来刀 刀銘 尾道住正光 | |
明治 | 1870 | 明治3 | 其阿弥姓になり、其阿弥家となる。 「当家の起こり遠く今を距ること1千1百年天平年中に在り、尾道唯一の旧家と称する亦宣なりとす」 |
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1872 | 明治5 | 三原城の建物・樹木の入札が実施され、本丸建物と天主台の走櫓と表門・唐門を残し、城の中心部の建物・樹木は次々と取り除かれていった。鍛冶屋敷にあった正家の井戸は、昭和12年頃までは存在が確認された。 | ||
1876 | 明治9 | 明治政府の廃刀令 鎌倉末期の六代正家(三原正家のこと)の長男正廣が其阿弥を相続し、その後裔に当たる其阿弥武助が其阿弥鍛冶屋を止めることで、1100年続いた刀鍛冶に終止符を打つ。 尾道之其阿弥の始まり〝其阿弥鍛冶屋の終わり〟 |
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1895 | 明治28 | 4 | 其阿弥武助(宗家)が、広島縣御調郡尾道町大字十四日739番屋敷において没する。 |