尾道正家 | 三原正家

天平時代から千三百年つづく尾道の旧家其阿彌家。備後三原派の刀匠や刀鍛冶に関する歴史的資料を公開している公式サイトです。

甲子夜話巻之九十一 笹ノ露 刀ノ名 松浦静山(著) ○天祥院殿の時召抱ヘラレシ田中伊織 ソノ子傳左衛門ト称セシハ 子孫代々ニ仕ヘタリシガ 予ガ代トナリ故アリテ暇遣シタリ 彼先ハ関原御陣ノ後落人 三成ヲ生捕タル者ニ乄 世皆ヨク姓名ヲ識ル所 暇遣ハセシ者モ亦傳左衛門ト称シキ 家ヲ出去ル時遣シ寘シ一ツノ刀アリ 今流転乄川崎某ト云者所持ス 即ソノ圖ト所傳ノユヱヲ集録ス
さゝのつゆ

本文は、松浦静山『甲子夜話』(副本)江戸時代版を複製
石田三成「三成生捕覚書」 毎日新聞 滋賀県版 平成25年12月1日(日) 27面

「さゝのつゆ」の刀について

 不埒ふらちを働いていた若党わかとうは、斬られたあと門から四、五間走って塀にぶつかりましたが、その拍子に若党の体は、袈裟掛けさがけに離れる、つまり、右肩から左脇の下へと真っ二つに分かれてたおれました。背中から斬られても、なお斬られたことに気づかないほどの切れ味の刀に笹の露と命名されました。名前の由来は、笹の葉についた露を落とす際、軽く葉の裏をたたくだけで露が直ぐに落ちることから、刀に触れただけで露が葉から落ちるが如く首を落とせるくらい切れ味が鋭いという意味と思われます。その無名の刀を鑑定家の本阿弥に鑑定に出したところ、刀工が備後国の貝三原正真と極められ、金十枚の値が付いたと書かれています。言い換えれば小判100枚と換算出来ますので、現在の価格で1000万円近くの値が付いたと考えられます。ただし、この金十枚の枚数は本来的には金額ではなく、鑑定のランクと推定されます。
 文中の「金拾枚の代付くべし」ですが、おそらく本阿弥の鑑定家の折り紙には、「代金子拾枚」と書いてあったと思われます。

原文
 刀直焼ニテニエ少クニホヒ勝ノ出キナリ 地鉄至テコマカニシテ、金強ニ見ユト
 刃文は直刃で沸出来より匂出来の刃文なり 地鉄は細かく、鍛えはしっかりしているように見える


石田が怨なきにあらず とは

 関ヶ原の戦いの時、徳川家康は三河国岡崎城主10万石の田中吉政(兵部大輔)に石田三成の捜索を命じました。田中吉政の家臣の田中伝左衛門が、関ヶ原で敗れて逃走中の三成を近江国古橋村で発見し生け捕りにするという大功を挙げ、その褒美として吉政より三成が所持していた無銘の刀〔後の笹の露〕を田中伝左衛門は拝領しました。
 家康は、吉政に三成を捕らえたのは誰かを尋ね、謁見すると伝えましたが、吉政は、「名もなき者にございますので、御無用にございます」と、田中伝左衛門とのお目見えを断りました。伝左衛門にお目見えを許しては、家康の直参にされてしまうと心配し、申し出を断ったのだと思われます。吉政のこうしたふるまいは、後に伝左衛門の知るところとなりました。家康により取り立てられる夢が破れ、彼は子の伊織に無銘の刀〔後の笹の露〕を渡して田中吉政の元から離れ郷里の近江に帰りました。
 田中吉政は、勲功が認められて、筑後国柳川城32万5千石の初代藩主となります。吉政が参勤交代の江戸からの帰りに京都の伏見の宿で客死し、2代藩主の忠政は、大阪夏の陣に間に合わなかったことから江戸で謹慎中の元和6年(1620年)に36歳で病死してしまいました。田中家は忠政が嗣子がなく没したので、無嗣断絶・改易となります。伝左衛門の子、田中伊織は、田中吉政の子・田中吉信に仕えましたが、行跡の荒い吉信に諌言して機嫌を損ね、牢人となりました。
 やがて、伊織は津山藩主の森忠政の家臣として大阪冬の陣、夏の陣で活躍しますが、その後、肥前平戸藩の天祥院(平戸藩4代 松浦重信)の家臣となります。伊織の子孫の田中伝左衛門は、松浦静山(平戸藩9代 松浦清)に仕えますが、訳があって、さゝのつゆの刀を置いて平戸藩を後にし落ちぶれていきました。
 これらの出来事は、すべては、刀の持ち主の石田三成の怨みによるものかもしれないことと推測できます。
-関ヶ原の戦いで石田三成を生け捕ったのは、田中吉政の家臣の田中伝左衛門-