尾道正家 | 三原正家

天平時代から千三百年つづく尾道の旧家其阿彌家。三原派の刀匠や刀鍛冶に関する歴史的資料を公開している公式サイトです。

大岡政談 直助權兵衛の實説

大岡政談(以下、政談)では、「直助権兵衛一件」 として収録されています。

要 約

 享保5年 (1720年)、江戸深川の万年町に住む町医者なかじまりゅうせきに仕える直助が、主人を斬り殺し金品と刀を奪って行方をくらましました。その後、ごんと名を変えて麹町の米屋に奉公していたところ、盗んだ刀によって足がつき死罪となりました。中島隆碩は元赤穂浪士 (やましょうもん) で、討ち入りに際し大石内蔵助から脇差 (はらとうしょうのりみつ) が渡されましたが、討ち入り直前に姿を消しついに深川に住居を構えました。直助が盗んだ脇差は、内蔵助より送られた品でした。

なおすけごんの実説

訳 其阿彌秀文

 直助権兵衛の事は、歌舞伎狂言にも仕組んだり、草双紙にも作ったりしてある。その実伝は大いにこれらのもののおもむきとは異なっているので、左に掲げることにした。享保年間に深川万年町冬木店に一人の医者 (政談では内科医) がいて、名を中島隆碩と言う。年は45才でその妻は33才であった。治療のほうはそれほど優れていないが、世才に長けていたので近辺の人とも親しみ睦み大変有福に暮らしていた。妻はまた、習字も上手なので子供をあつめて手習いの先生をしていた。召し使っている下女と下男が2人いた。下女は、去年暇をとって帰ったのでそのあとは、近所の15才になる少女を抱えて使っていた。下男は23才で、上州 (政談では米どころの信州) 生まれ、名をなおすけといった。直助は、文盲で日用のことさえ弁じないので妻は気の毒に思い、手本などを与え子供に教授する暇には直助に習字を教えたので、遂に読み書きが出来るようになった。享保5年 (1720年) 12月30日のこと、病家からの使いの者が来て、薬代として3両を隆碩の家へ贈ってよこした。そのさい、隆碩は外出しており、妻が便所へ行っていたので、直助は右の薬代の金を受け取り仮名まじりで請取書を書いて使いの者を帰した。妻は便所から出てきて、ひそかにこの様子を見て、どうするかと思っていると、直助はこのことを妻に告げずに、金を懐に隠し持っていた。その夕、隆碩が外出から帰って来たので、妻はこれこれだと告げた。隆碩は大いに怒って不屈な下男の仕事である。今後の戒めにしようと直助を呼んでなじったが、白状せずに知らないと答える。隆碩はそれなら無理にでも言わせてやろうと、襟首を取って引き寄せ膝で押え敷いて短刀を抜き首に押しあて、白状しなければこうして殺してやるという。直助は、包みきれず実は盗みとってここにあると懐中から金を出した。隆碩は今夜は除夜、明日は元旦であるから、正月15日過ぎには宿請け人へ引き渡して詮議してやろうとその夜は一先ず許してやった。翌年正月15日になったので、直助は明日はかねて主人から言われているが、宿請け人に引き渡されるであろう。ならば生き恥をさらすよりも夫婦の者を殺し、金を奪って逐電しようとひそかに日の暮れるのを待っていた。その夜、夫婦が寝入った頃をうかがい枕のほとりに忍び行き、掛けてあった枕刀をとって、隆碩を刺そうとした。隆碩は、眼ざとく気付き無礼ものと呼びかけて起き上がるところを、早くも頭上を切りおとした。何かで体勢を保ち続けていたが、とうとう隆碩が倒れた。倒れるところをまたも腹を刺し通した。女房が物音に驚いて何事かと起き上がるところを、これも一刀に首を斬り落とした。直助は、自分の着ていた衣類の袖で血刀をぬぐい、隆碩の鼻紙袋から箪笥の鍵を取り出して押し開け、有金は残らず掻きさらい、自分の着物を脱いで隆碩の晴れ着と着換え、刀剣・衣類等を背負って夜にまぎれて逃げ去った。召使の小女は、予め直助が欺いて実家に帰しておいたので居合わせなかった。翌朝にいたり、近所の人々が隆碩夫婦の横死したのを見付け、この旨を役所へ訴え出たので厳しく直助の行動をたずね、また、小女を召し出して取り調べさせた。ところで直助は、しばらく郷里に隠れていたが、間もなく再び江戸へ来て名を権兵衛と改め、麹町4丁目のつきごめの大和屋喜兵衛方へある人の口入れで下男に住み込んだ。しかるに、3月21日に至って権兵衛は金の入用が出来たというので、かたなひとこし (月堂見聞集では 「三原」) を金1両で武州荒川村の百姓五兵衛方へ質入した。五兵衛は一度質にとったものの金持ちというほどのことでもないので、金に差支えが出来て、これを同村の年寄与五兵衛という人に質入れして金2両を借り受けた。しかるに、この刀は権兵衛が先に隆碩を殺したとき奪いとった品であり、諸国へ触られていたお尋ねの品と符合していたので驚いた与五兵衛は、7月10日同村の名主次郎左衛門の家に行って、右の次第を告げ五兵衛を村預けにしたいといった。次郎左衛門は捨て置くことは出来ないと領主に訴え出た。ここは、新番頭安藤治右衛門組須田彦兵衛500石の知行所である。そこで須田の家来小林藤左衛門が段々取り調べの結果、その刀のもとの質置主は権兵衛だと分かった。早速、権兵衛の抱主大和屋喜兵衛の家へ行って吟味すると、大和屋には2人の下男がいて、1人は権兵衛、もう一人は六兵衛といった。権兵衛はこの様子を見て、是はいけないと裏口から逃げ出したのを藤左衛門は追いかけて直ちに路次口で召し捕らえ、その日は喜兵衛に預け、更に喜兵衛は罪人を名主へ預けて帰った。こうして即日須田の組頭池田数馬へ届け出を持って、池田から町奉行中山出雲守 (政談では大岡越前守) へ引き渡した。しかるに、権兵衛は大額の髪をスッカリ抜いて薄髪になっているし、かねて顔にあった黒子を灸で焼き髭をのばしておたずね人相書とは随分変わっていた。かくて13日から牢屋へ入れられ、同月23日に処刑された。その罰文は左の通りである。

             深川万年町中島隆碩召仕             直助
此者儀、当正月16日暁、主人隆碩夫婦を切り殺し、その上、刀ならびに小袖・金銭を盗み取り、欠け落ちいたし候、逆罪至極の者によりて町中を引き回し日本橋にてさらし候の内、諸人勝手次第、のこ切り (びき) にいたさせ、磔に行ふものなり

     7月23日
同日引き廻しの上、25日まで日本橋で晒し物にし、26日鈴が森 (政談では小塚原) で磔になった。右の中島隆碩は、元浅野内匠頭の家来で赤穂退去ののち、大石内蔵助の同盟に加わって神文までしたのに、浪人の糊口をしのぐ為にと内蔵助から金200両と、差料にと脇差一腰(政談では 「則光」) を贈られた。しかるに、討入りの時に臨んで、隆碩 (政談では小山田庄左衛門) は逃げ去り、ついに深川に居を占めたものである。右の直助の盗んだ脇差は、即ち右の内蔵助より送られた品であった。

直助権兵衛は、「名奉行!大岡越前 直助権兵衛の一件」などでも知られています。直助は、主人から盗み出した三原刀匠則光の脇指を売った事で足がつきました。